斎藤幸平『人新世の「資本論」』感想|脱成長はいかにして可能なのか?

私たちは資本主義の魔力に勝てるのか

2021年新書大賞を受賞し、20万部以上を売り上げているという話題の本『人新世の「資本論」』を読んだ。その序盤で語られるグローバル・サウス(主に南半球の途上国)の惨状には胸を痛めたし、資本主義がもたらしている環境破壊、その「待ったなし」の切迫度合いには危機感を抱かされた。

しかし、同時に、著者が主張する「脱成長コミュニズム」という反資本主義の理念には素直に首肯できなかった。資本主義という巨大なシステムはそんなにやすやすと打倒できるものだろうか? 具体的なロードマップは? そんな疑問が終始頭の中に浮かんでしまった。

先進国の生活はグローバル・サウスの犠牲の上にある

この本はまず、先進国の生活が多くの途上国の犠牲の上に成り立っているという指摘から始まる。「帝国的生活様式」と言われる、日本を含む先進国の豊かな生活は、主に南半球の貧しい国々「グローバル・サウス」の環境破壊や搾取によって可能になっている、というのだ。

実際、私たちは日々安い衣類・生活用品・食料の恩恵を受けている。普段は意識しないが、そうした日本ではありふれたものが絶えず多くの悲劇を引き起こしている。

このような認識と反省の上に「エコ」や「SDGs」といった運動もあるが、しかし、著者は「SDGsは大衆のアヘンである」と喝破する。資本主義のベースを維持した上での環境保護や貧困撲滅など絵空事だと断罪するのだ。

地球を守るための脱成長コミュニズム

地球環境を守り、格差を是正するためのビジョンとして、著者は後期マルクスの思想に基づき「脱成長コミュニズム」を提唱する。その柱として提示されるのが次の5つだ。

  • 使用価値経済への転換
  • 労働時間の短縮
  • 画一的な分業の廃止
  • 生産過程の民主化
  • エッセンシャル・ワーカーの重視

いずれも、過度な生産・労働を抑制し、資本主義の歪みを是正するような目標である。日々私たちが感じている社会への違和感、労働に対する徒労感を拭い去るようなビジョンだ。これ自体に反対する人はそう多くないだろう。

長期的には脱成長コミュニズムは実現されるだろう

こうして示された脱成長コミュニズム、言い換えれば資本主義からの脱却という目標は、長期的には実現されるように思えた。「人新世」という、人間の活動の痕跡が陸海空の地表すべてを覆うようになった現在、このまま資本主義の無限の膨張が続けば環境は持たないからだ。

もし現在のペースで人類が地球の資源を貪り、自然を破壊していけば、やがては人類そのものも生存できなくなる。そこまで行かずとも、不可逆的なダメージを地球環境に与えてしまい、人類の生存領域が狭められたり不自由を強いられることになる。

おそらく、人類はそこまで愚かではない。いくら資本主義が無際限の成長を求めるとは言え、それは自然法則ではないので、どこかで歯止めがかかるはずだ。脱成長コミュニズムはきっと実現される。

しかし、それは著者が想定しているよりずっと先のことになるのではないか? これが、本書を読んでまず第一に頭に浮かんだことだ。

この本に対して言いたいこと

正直に言って、私は本書の結論には否定的だ。方向性には同意するのだが、見通しの甘さがどうしても気になった。

いかにして脱成長コミュニズムを実現するか

行き過ぎた資本主義を脱して脱成長コミュニズムをめざす。しかし、現在地点からこの理想地点までには途方もない隔たりがあるように見える。この間を埋めるステップは、残念ながらほとんど示されていない。

普通に生活している私たちは、資本主義システムのど真ん中に置かれている。それは当たり前すぎて意識すらできないほどだ。常にその恩恵を受けている。指先の動きひとつ、視線の泳ぎ方まで、そのシステムに駆動されている。ここを脱するには圧倒的なエネルギーが必要になるはずだ。中途半端なものではすぐグリーンウォッシュや新しい「大衆のアヘン」によって骨抜きにされてしまうだろう。

たとえばアメリカのアーミッシュのように、宗教的な基盤と強力なコミュニティがあれば、脱成長・反資本主義も可能かもしれない。しかし、日本においてそれに匹敵する動機づけは実現可能だろうか。ここは何ひとつイメージできなかった。

「3.5%」は反資本主義システムに妥当するか

書籍の後半で、著者は「3.5%」という数字を提示する。世の中を変えるにはその半数も動く必要がなく、たった3.5%の人々が行動を起こせば足りるというのだ。例として、3.5%の人々の運動によって独裁政権が倒されるとか大統領が辞任に追い込まれたという事実が紹介される。

しかし、相手は特定の政権や独裁者ではなく、この場合、資本主義システムそのものだ。果たして、資本主義という巨大なシステムに対して、政治的動乱の例から汲み出された3.5%という数字は妥当するのだろうか?

資本主義システム、あるいは資本そのものが、この運動に抵抗するだろう。3.5%が脱成長コミュニズムのために立ち上がったとしても、残り96.5%は常に資本の誘惑にさらされる。資本はあらゆるメディアを通じて人間を誘惑し、その自己増殖の運動に動員しようとする。インターネットの普及によってこの力はますます強まるだろう。

それでも、社会のシステム自体を変えることができるだろうか?

世界一貧しい大統領ムヒカについて

行き過ぎた資本主義を止めて、本当に豊かな生活を実現しよう。このようなビジョンに触れて連想したのは、かつて日本でも話題になった「世界で一番貧しい大統領ムヒカ」だった。大統領であるにもかかわらず農地に立つ古い家屋に住んでボロボロの車に乗るその生活スタイルには多くの日本人が心を掴まれた。

だが、ムヒカのメッセージは一過性のブームで終わってしまった。あれほど注目されたにもかかわらず、その後日本社会に及ぼした影響はさほど大きいとは言えない。

資本主義システムの圧倒的魔力|FIREを例に

脱成長、反資本主義。このビジョンは実に魅力的だ。実際、資源と環境のキャパシティによって切迫した状態にもある。それにもかかわらず、その実現はまだまだ先だと思わざるを得ない。

というのも、資本主義の魔力があまりに絶大だからだ。

資本は無限の増殖を求める。そのエネルギーは圧倒的だ。このシステムの作動は、ミクロに見れば個々人の選択・行動様式の集積のはずなのだが、マクロに見ると、とてもそうは思えない。まるで人間を超えた自然現象かのように巨大でパワフルである。たとえるなら、地球の自転のように。

たしかにこの資本主義システムの作動がさまざまな問題を起こしているのは事実だ。日本のような先進国に住んでいても、その巨大で暴力的な運動によって人間性がすり潰されるようである。

しかし一方で、その魔力も凄まじい。

最近で言えばFIRE(経済的独立・早期リタイア)が話題となり、このビジョンは多くの日本人を魅了している。FIREは個人的に資本を溜めて、あとはその資本の増殖によって帝国的生活様式を維持しようという発想である。すなわち、意識するとしないとを問わず、FIREとは資本主義システムに乗っかってグローバル・サウスを搾取して生きていこうというスローガンなのである。

このように整理すると、FIREとはきわめて暴力的なビジョンだ。しかし、悲しいかな、脱成長よりもFIREの方が多くの人の興味を引いているのは事実だろう。

資本主義システムが根本的に打倒されるビジョンは、未だ見えてこない。

-エッセイ