早期リタイア「FIRE」に興味が持てない理由|コミュニティ形成と価値創出の問題

2021年5月17日

ここ最近、FIREという言葉を目にすることが増えてきた。意味は「火」でも「クビ」でもなく、「早期リタイア」だ。"Financial Independence, Retire Early"の頭文字を取ってFIREである。直訳すれば「経済的自立、早期退職」となる。ビジネスで成功したり貯蓄や投資に励んだりして資産を築き、労働から解放されて自由になろうという理想像である。

しかし、私はこのFIREに興味が持てない。憧れない。いや、それどころか周回遅れの理想像だとしか思えないのだ。

「FIRE」に欠けている2つの視点

最初にFIREの概念を知ったとき、私はかつてのネオヒルズ族やちょっと前の仮想通貨投資による「億り人」を連想した。若くして一攫千金を成し遂げて早期リタイアし、そのあとは悠々自適に好きなことをして暮らすというライフスタイルのことだと思った。しかし、FIREは少し違うようだ。堅実な仕事をしながらコツコツと給料を貯金し、比較的低い金額でリタイアすることも含むらしい。そこが従来のセミリタイアの概念と少し違う。

とはいえ、それでもFIREには重要な観点が抜け落ちていると思う。というより、ずっと前から考えるべきだった問題が依然として等閑に付されているように感じられるのだ。

第1の視点:居場所=コミュニティの問題

FIREは自由の概念と深く結びついている。会社への依存を抜け出し、経済的自立を達成し、自由に生きたいという願望。これが、若者たちがFIREを支持する最大の要因だろう。

もちろん、この自由への憧れは理解できる。長時間労働や理不尽な働かされ方はだれだって嫌だし、奴隷的状態に置かれていればそこから抜け出したいと思う。FIREはそこから抜け出すときの目標地点なのだろう。

しかし、FIREという理想像には、いかにして自分の居場所を見つけるか、会社以外のコミュニティを形成するかという観点が抜けている。FIREについて詳しく調べたわけではないが、少なくともネットを概観した限りでは、FIREをめぐる議論にはコミュニティの話がまったく出てこない。

もし経済的な自由を獲得したとしても、どこにも所属してなかった場合、孤独である。しかし、人間が幸せに生きようと思ったら、ほとんどの場合、所属先となるコミュニティが必要だ。むしろ、今の時代にはこのコミュニティこそが焦眉の問題ではないのか。

日本人はここ三〇年ほどで驚くほど自由になった。地域の評判をさほど気にしなくてよくなったし、家族の繋がりも希薄になった。会社も高度経済成長時代のような強固な共同体ではなくなった。非正規雇用や派遣ともなれば、働いていたとしても会社への帰属意識はほとんど皆無だ。つまり、かつてあった地域共同体・家族・会社といういずれのコミュニティもその力を失い、ほとんど崩壊しかかっている。

そんな中でも、会社はまだコミュニティとしての命脈を保っていたように見える。ところが、FIREという概念はそれすら脱却してしまえと言う。ここに乱暴さがある。

「経済的独立なんてくだらない。会社というコミュニティを守れ! 普通に働くのがいちばんだ!」

などと言いたいのではない。会社から自由になるのは結構だ。しかし、それによってまた一つ、コミュニティを失うということに、FIRE支持者は気がついていない。その重大性に気づいていない。もし会社という、労働を媒介としたコミュニティを否定するのなら、その代わりとなるコミュニティをいかに形成していくかが問われなければならないだろう。それを抜きに早期リタイアを達成したところで、どこにも包摂されない小金持ちが増えるだけではないだろうか。

第2の視点:価値創出の問題

上記のように書くと、こういう反論があるかもしれない。

「FIREしたとしてもそのあと何もしないわけではない。本当に好きなビジネスに取り組んでもいいし、新たにコミュニティを作ってもいい。だから、その批判は当たらない」と。

しかし、もしビジネスに取り組むなりコミュニティを形成したりするなら、FIREを目標にする必要があるだろうか。むしろ、お金がない状態のときこそ継続的に取り組めるビジネス・モデルを構築したり、働きながらコミュニティを形成したりしていけばいいのではないだろうか。まずFIREを達成する、というステップは不要に見える。

人間は、多くの場合、社会に価値を提供しないと幸せを感じられない。逆に言えば、幸せになりたいなら社会に価値を提供すればいい。さらに言えば、継続的な事業を行っていくときには価値提供が必須だ。これなしに継続的なビジネスは成り立たない。

FIREは、早期リタイアしたあとにもそうした活動を「することができる」と言うが、そこに至るまでの労働なり事業については何も言わない。FIREに達するまでの道のりはその内容を問わず、完全にプロセスとして、下準備としてしか見ていない。これは価値創出の問題を先送りしているだけのように見える。

もしも価値があって継続性のある事業を行いたいのであれば、何もFIREを達成してからと考える必要はない。これは過去の事例を見ても明らかで、ほとんどの創業者は貧しい状態から(少なくとも裕福ではない状態から)スタートしている。逆に、FIREの状態から始めて成功した事例は思い浮かばない。

おそらくだが、日本人はお金がない状態で何かに挑戦することを避けようとしている。そうすると周囲に迷惑がかかるから。しかし、FIREしてからならだれにも迷惑をかけなくて済むから嫌な思いもしなくていい。そんな発想が、FIREを支持する人の根底にあるような気がする。だとすると、FIREという理想が注目を集めている現象も、煎じ詰めるところ日本人的な「人に迷惑をかけるな」という思想の裏返しでしかない、ということになりそうだ

最後にちょっとした留保

短く今回の話をまとめてみよう。

早期リタイア「FIRE」は注目を集めているが、大事な視点が抜けている。第1にコミュニティの問題。仕事による束縛を脱したとしても、代わりとなるコミュニティについての議論が見当たらない。第2に価値創出の問題。価値ある活動をしたいならFIREを前提にする必要はなく、いつでも好きなときにやればいい。こういった理由で、私自身はFIREに興味がない。

日本人はもうずっと自由を求めて、それを実現してきた。さまざまな軛から解放された。しかし、その副作用として孤独になった。今ではバラバラの個人がメディアに影響されるようになり、新しい全体主義が生まれるのではないかとも危惧されている。そんな中でなおも解放としての自由を志向するFIREは周回遅れの理想像だと思うのだ。

とはいえ、私は書籍を読んだわけではないので、FIREの概念を狭く捉えすぎている可能性はある。ここは留保しておこう。もしかしたら、FIREには私が批判したような観点がすでに織り込み済みである可能性は否定しない。あるいは、海外の書籍が出典らしいので、日本の状況に合わせた発展的な解釈の余地はあるのかもしれない。とはいえ、YouTubeやAbema、あるいはSNSで語られているFIREに関して言えば、上記の批判を免れることはできないと思う。

-エッセイ